「先生は、わかりやすく、実行しやすいものが良く、そうでないものがダメだとおっしゃいます。どうやって見分けるのでしょうか?重ねてご説明ください。」
「中庸には「道というのは少しも離れることができない。離れたならば道ではない」とあります。道が真に良いのか悪いのかはここで分かります。
少しも離れることができないのは、堯舜孔子の道だけです。仏教や老子の道のようなものは、あるにはありますが、天下の役には立たず、無かったとしても誰も困りはしません。このようなものを道と呼ぶに足りるでしょうか?
老子や荘子の説くところは、春秋戦国時代や秦、漢の時代に流行りました。
仏教は、後漢の永平八年に初めて漢の国に来ました。堯や舜の時代にはこれらはなかったのです。しかし、天下泰平の世であり、人々は良く治まり数百年にも及びました。
仏教や道教がなくとも何の問題もなく世の中は収まっていたのです。
秦皇、漢武、唐の玄宗、宋の徽宗これらの先帝たちは最も道教を信じていましたが、政治は日に日に悪くなり、国は落ちぶれました。仏法は中国で3-6世紀に流行りましたが、その間戦乱や滅亡が繰り返されました。
結局、道教や仏教があることは乱世を良くはしませんでした。
唐や宋はまぁマシとはいえども、仏法のおかげではないですし、泰平であったとは言い難い者があります。
要するに、仏教や道教なんてものはあっても、天下の役には立ちませんし、無くても損があるわけでもありません。
堯舜孔子の道のようなものは、もう、一日でもなくなってしまえば、君臣父子夫婦兄弟朋友、皆めちゃくちゃになりましょう。
少しも離れることのできない道である。というのはそういうことです。
本当に必要、不必要というようなことは明確です。
中庸に、「君子の道というのはこれを身につけて、庶民に店、三王に考えて間違いなく、天地に立てて恥じるようなことはなく、悪魔に聞いたって疑いが生まれるようなことはなく、何万年経過しようとも惑うことはない」とあります。
聖人の道と言うのはこれを自分に元間、人に冊子、古くを考え、未来に推し、合わないところなんかない。天地のすべてのどんな子まないところまで合わないというところはなく、通じないということはない。
これはまさに天下の達道であるからです。
難しく、わかりにくい、理屈やら理論やらは、見てもみるところがないし、聞いても聞くに堪えない。人々に実行できるかと言ったら、できやしない。
こんなものはあり得ない、その是非は、はっきり明確にわかります。」