論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 上巻 第29章

「先生は次々に道はわかりやすくて実行しやすいのだと教えてくださいます。でも今儒教を仕事にしている者たちは、皆、入りにくいと言って苦しんでいます、これはなぜでしょうか?」

「学問を見て一種の高貴なものだと思って、日々の生活から離れていてレベルが高くて実行しにくいものであるとしがちです。これははじめるのが難しいことに苦しんでいるからです。

聖人の教えを考えてみると、人によって教えがあるのであって、教えがあって、そこに人を合わせるわけではありません。

作りつけたり、飾り付けるというようなものでもない。人の心があるべきところにあるのであって、強制してそうさせるのでもありません。

孝弟忠信の人は皆善であり美でありだれも文句を言う人はいません。

学問で学以外のことを学問と言う人はいません。

田舎者や商売人のような卑しい人にだって天性において、武士でもかなわないほど孝友廉直な人もいますし、学問に由らずして信義を貫き、一身をなげうって正義を守る人もけっこういます。

むしろ学問の基本というのはそういうもので、ただその生まれつきの本性の美しさを観るべしというとはいえ、それは小さくてみえにくいし、足りないこともおおい。

だから聖人は教えを立てて、学を設けて、人に書を読み、文を学んで、見つけ、満たしていくことを教えるのです。

天下の同じところに出て、少しもそのあいだに増えたりすることはありません。

だから中庸では「道を修めることを教えという」と言うのです。生来持っている美は善ではあると言っても、その美を広げていくように努めなければ、徳ということにはならないでしょう。

だから論語にも、「十軒くらいしか家がない小さな村にも私程度の忠信を持つものはいるだろうけれど、私ほど学を好むものはいないだろう」というのです。

道は聖人と言えども、知らずよくできないものです。でも、其の根本は、簡単で分かりにくいことでもやりにくいことでもないのです。

学ぶ者はこの理を知り、その後学ぶべきです。いわゆる至貴至高だとか人間の一般的な常識とかけ離れて、実行しにくい道のことではないということを知っておくべきです。