論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 中巻 第四章

「程子は中庸を孔子一門の心法であるとされましたが?」

「確かに中庸という語は論語で初めてできている。これは余計なことや足りないことがなく、いつも行なうべき道のことです。ただ、中というのとは意味が異なります。中庸というのは論語の解説書です。これを孔子一門の心法だとするのは違います。曽氏も『普通の人がやるべきことは、忠と恕だけです』と言います。顔淵が仁とは何かを問うた時、孔子は『己に克って礼を行なうことを仁という』と言いました。孟子が書いている孔子と子貢の話の中では『仁であり、かつ智であれば、聖人です』とも言います。皆仁義です。中を以て孔子一門の心法だなんて聞いたこともない。」

童子問 中巻 第三章

「じゃあなんですか?仁義は中より重要であるってことですか?」

「そうです。学問は仁義より尊いものはなく、仁義のために礼より重要なものはありません。だから論語では礼のことは言いますが、中のことは言わないのです。

顔淵が孔子に仁とはなにかを聞きます。孔子は言います『自分に克ち礼に立ち返ることが仁です』また、『君子は博く文を学んで、これを礼にのっとって実行すれば、間違いない』ともいいます、また『いくら恭しくても礼がなければ疲れてしまいます。慎んでも礼がなければおそれているだけになってしまう。勇があっても礼がなければ乱れる。真直ぐでも礼がなければ堅苦しいだけになる』

これらは孔子の学問をする人にとって大事な言葉です。萬世学問の基準であり、結局重要な一つに帰結する二つとない大事なことなのです。唐のころ教えがまだ細かく決まっておらず、やっていることが仁義でないということではなくて、仁義の細かい分類がなかった。だから『中であれ』と言っていたのです。その後、孔子孟子の出現で仁義を教えとして礼を要とした。中は秤のようなもので、礼は秤で物をはかるようなものです。中はまだごちゃごちゃしていますが、礼は則に従っています。礼は仁義から生まれていますが、仁義をあるようにする働きがあります。だから常に礼を教え、中のことはあまり言いません。」

童子問 中巻 第2章

「中とは、堯舜以来伝わるもので、これで良いとされていると聞いたことがあります。今、仁義を主張するのはなぜですか?」

「仁義は即ち中です。無差別な愛を己のために行なうことは間違いです。仁義ではない。こせこせしたやり方では到達しないのです。そして仁義ではない。仁義とはやりすぎないことです。だから周子こと北宋の周敦頥は『仁義は中正だ』というのです。中を伝授の心法として仁義を孔孟の主張であるとしない者は考えが足りないんです。中を理で考えることは難しく虚になりますが、仁義の徳は実です。」

童子問 中巻 第一章

「先生は論語は宇宙第一の書であり、仁は孔子の教えの第一字である。とおっしゃいます。しかし、『大学』では敬が大事だといい、『中庸』では誠が大事だといい、『詩経』では思無邪だといい、『書経』では中、『易経』では時だといいます。四書五経みんなそれぞれの綱領があるということですか?どうですか?」

「人の道に仁義があることは、天の道に陰陽があるようなものです。仁義の外に道はありません。だから仁に義が含まれるということは、(太極図を観ればわかるように)陽に陰が含まれているくらい当たり前のことです。だから孔子は仁が重要だと言って、義はこれを補うものであるとしました。敬というのは仁義を敬するものですし、誠とは仁義を現実にまことにしていくことです。詩の思無邪や、書の中、易の時もみんな同じです。

道はそんなに多く分岐しているものではないのです。だから孔子は『私の説く道は一を以て之を貫く』というのです」

童子問 上巻 第59章

「道とは仁義のみであります。曾子はどうして『夫子の道は、忠と恕のみである』と言ったのでしょうか?」

「仁義は本当に道の全体であります。このことは説明するまでもありません。孔子の説いた夫子の道というのは、夫子が一人ですることを言います。夫子の家法であるというようなものです。さて、衛霊公篇に子貢が『一生すべきことを一言で表すと何でしょうか?』と問うと、孔子は仁とも義とも言わず、『恕だね』といいます。曾子と同じ意味ですね。この道を進む人にとって実行しやすいように説明してくださっているのです。さっきも言ったように恕ことで自然に仁となっていくのです。忠というのは己を尽くすことであり、その意味を分かることは難しいでしょう。でも、恕ということは難しくないですね。字書を引くと『己を以て人を體するを恕という』と書いてあります。この體っていいですね。深く人の心を體察する、つまり、自分の体を通して細かく調べよく考察すれば、自然と優しい気持ちになり、ひどいことにならない。だから恕というのはやさしさであり、人に接するとき深く相手の心を體察して、やさしい気持ちであれば、親しいもの疎遠なもの、貴賤、大小さまざまなものに仁が行われ義が達し、道がないところがなくなっていく。曾子が忠恕を以て孔子の道だとしているのはこのことです。

良い裁判のようなものです。罪は本当にあったとしても、その心を體察すれば情状酌量の余地があるのではないかと。周礼によると古代の中国の法では幼児、老人、精神病者は罪を免除され、また法の無知、過失、忘却の場合は減刑されていたといいます。これはこの恕ろうという頑張りなのでしょう。

または、恨みつらみがあっても同じことです。恕ろうとすることが必要でしょう」

 

ここで上巻おわり。

 

はて、たくさん本を読むブログをやっている著名な編集者が、童子問は53章で、その数に意味があるというようなことを書いていたが、いったいどういうことだろうか?(

1000ya.isis.ne.jp

単なる記憶違いならばそういうこともあるだろうが、章の数に意味があると繰り返すのならば、いったいどういう意味があるというのであろうか?

同人物は、童子問には「恕」ということは、「その思考と行動において他者を含んでいくことをいう」と記載している。そんなことは今のところ書かれていないようだ。

 

私は書いてあること、言及している関連古典に追いつくのに手いっぱいであるし、読んだことを自慢するために書いているのではないので、まぁ良いか。

世のたくさん読んだことをビジネスにしているような方というのはそういうものなのかもしれない。

 

この先を読んだらわかるかもしれないし

とりあえず中下巻に続く

童子問 上巻 第58章

孟子は恕ることつまりゆるすことにつとめることは、仁を求めることの最も近い道であるといいますがどういうことですか」

「まず、求めるというのは、無いものを求めるということです。至るというのとは違います。仁というのは頑張ってやることではないです。恕るというのは頑張ってやる必要があります。仁というのは徳がある者にしかできません。恕は頑張ればできます。頑張って恕をすれば頑張らなくても仁が得られます。ひとつ恕ことを頑張ればひとつ仁を得ます。ふたつ恕ことを頑張ればふたつ仁を得ます。思うに頑張ってできるかにかかっているのです。だから『仁を求めるのに近道はない』のです。仁は仁。恕は恕。恕ことを以て仁にいたる工夫だととらえてはいけません。またどっちがすぐれているとか比べるものでもありません。」

童子問 上巻 第57章

南宋の哲学者、張栻は論語の中で仁について述べている章を集めて一冊にして世に問いました。これは正しいですか?」

「ダメだねぇ。論語ってぇのは全部頭の先からしっぽまで仁でないところはないんです。易経にも書いてありますね。『仁である人はこれをみると仁であるといい、智者はこれをみると智であるという、多くの人は毎日使っているけれど、知らない。だから君子の道というのは少ない』とでも、仁というのは徳の極まった姿であって、学が仁にいたるときは、徳が皆そろってくる。だから子夏は『広く学んでよく志をもってよく質問して身近に考える。こういうことの中に仁というのはあるのだ』と言ったんです。

仁というのは、この孔子の学問のキモであります。仁以外に学問というのはないのです。先達の老先生方はそれなのに理を理解しようとしています。仁が離れていきますね。」