また、少し空いてしまった。
「誰が言ったということではないですが、学問は知を以て先とすると聞きます。今、理を極める説は仁を求めるにおいて非常に妨げになるといいます。理を捻じ曲げていることはないでしょうか?」
「書を読み、理を極めていくことは、孔子先生の定法であることは当たり前です。ただ、初心者が本当にはじめて学ぶときには、まず天下の書を読みつくし、理を極めつくそうとします。これは聖人の学ではありません。
というのは、いやしくも理をきわめることを先にする時には、徳行を後回しにするとまでは言いませんが、徳行が自然と後回しになってしまいます。これが学問が害であるということです。宋の儒者は、「天下に性外のものはない」と言います。また、「性は即ち理である」とも言います。しかし、一つの理で天下のことを断じることはできません。ものに好悪があり、事に緩急があり、あちこちに散らばり、出入り隠れ顕れる。これらことごとくを理を以て決するべきではない。だから、「君子が知らないことには口出ししない」というのです。
徳行を元とする時は、智が至り、道が明らかになり、考えるまでもなく、自然にわかってくる。
もしそうならないで、理屈で分かろうとすると、説明は延々と長くなり、実は失われてしまう。朱熹や程兄弟が天を論じるように、理屈ばかりで説明すると、天の道を殺してしまうことになる。仁についても同じことです。理で説明しようとすれば、仁から離れていってしまう。「ヒヨコのような小さいものにも宇宙が展開しているので見ると仁がわかる」とか、「脈を診れば、人体は小宇宙であるので、仁がわかる」とか「聖賢が仁というところを集めてみなさい」いうのです。
仁とは実徳なのです。理で分かるものではありません。
孔子は、「仁者は人を愛する」と言いました。孟子は「人は忍びざるところがある。これを忍ぶのが仁です」と言いました。
孔子や孟子の説は、卑近でわかりやすくないですか?理で仁を求めていては、遠くなりわかりにくくなるのです。」
突然感想
私が最初に習った武道の先生は、とても恐ろしく、また強い方であったが、
「武道で強くなるためにはどういうことが必要ですか?」と問われると、
誰から聞かれても、いつも「愛ですよ」と答えておられた。
当時は、どういうことなのかさっぱりわからなかったし、愛なんか何の足しにもならないじゃないかとすら思ってひたすら稽古をしていた。
その後、いろいろなことがあって別の武道を継続しているが、今は、この延長にあることがわかるような気がしなくもない。(← いや、わかっていない)