論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 上巻 第43章

「せんせい、仁とは何かをさらに教えてください」

「いいでしょう。仁とは慈愛の心が内から外に及んで、至らないところがなく、その慈愛が届かないところがなく、残忍刻薄な心がないことです。

こっちにはあって、あっちにはないというのでは仁ではありません。一人にだけ施して、10人に施さないのは仁ではありません。一瞬にもあり、寝ているときもあり、心が愛を離れず、愛が心にある。そんな状態で一如になっていることこそが仁です。

だから徳は人を愛するより大きいことはなく、物を損なうより悪いことはありません。孔子一門が仁こそを学問の中心に据えているのはそのためです。」

童子問 上巻 第42章 

孔子孟子がいうところの仁とは、結局どういうことなのですか?」

「仁とは人道の大本です。多くの人々が善い行いをする要です。人道に仁義があるというのは、陰と陽があるような当然のことです。だから孟子は『仁は人の家のようなものです、義は人の正しい道です』というのです。仁と義は分離することはなく、仁がその要となります。だから孔子門下の者は皆、仁を日常茶飯の事として、あえて其の意味を疑うことはありません。だから論語は皆、どう仁をおさめるかということを言っていて、仁の意味を説くことがありません。諸子が聞いたり、答えたりすることは皆そういうベースに成り立っています。その意味を明らかにしたければ孟子から入るといいでしょう。孟子はこういいます。『惻隠の心は仁の始まりです。人にこの起点(※)があることはまるで、身体があるようなもので広げてこれの密度を高めていくことを知れば、火が燃えるように、泉が湧くようになるだろう。十分に密度を高めれば、四海を覆うようになるだろう』『ひとは皆我慢できかねるところがある。これを忍所に達するのが仁である』キミはこの二つをよく読めば、仁がどういうことかわかるだろう。

孔孟が仁というのは明白で疑義の余地がない。だから私は『孟子の書かれたものは論語の解説である』というのです。孟子は言います『端とは本であり、はじめです』四端の心、はもともと備わっているのです。密度を高めていくというのは、これを達するということです、惻隠の情を達するというのこそが、仁であり、四海を追おうというのは、四端の心を達することで、仁義礼智を成すことを言うのです。仁義礼智の徳がなければ、四海を覆うことなどできません。」

 

 

※ 原文では四端となっている。惻隠だけではなく孟子の言う仁義礼智の端、惻隠、羞悪、辞譲、是非 のことか?

童子問 上巻 第41章

また、少し空いてしまった。

 

「誰が言ったということではないですが、学問は知を以て先とすると聞きます。今、理を極める説は仁を求めるにおいて非常に妨げになるといいます。理を捻じ曲げていることはないでしょうか?」

「書を読み、理を極めていくことは、孔子先生の定法であることは当たり前です。ただ、初心者が本当にはじめて学ぶときには、まず天下の書を読みつくし、理を極めつくそうとします。これは聖人の学ではありません。

というのは、いやしくも理をきわめることを先にする時には、徳行を後回しにするとまでは言いませんが、徳行が自然と後回しになってしまいます。これが学問が害であるということです。宋の儒者は、「天下に性外のものはない」と言います。また、「性は即ち理である」とも言います。しかし、一つの理で天下のことを断じることはできません。ものに好悪があり、事に緩急があり、あちこちに散らばり、出入り隠れ顕れる。これらことごとくを理を以て決するべきではない。だから、「君子が知らないことには口出ししない」というのです。

徳行を元とする時は、智が至り、道が明らかになり、考えるまでもなく、自然にわかってくる。

もしそうならないで、理屈で分かろうとすると、説明は延々と長くなり、実は失われてしまう。朱熹や程兄弟が天を論じるように、理屈ばかりで説明すると、天の道を殺してしまうことになる。仁についても同じことです。理で説明しようとすれば、仁から離れていってしまう。「ヒヨコのような小さいものにも宇宙が展開しているので見ると仁がわかる」とか、「脈を診れば、人体は小宇宙であるので、仁がわかる」とか「聖賢が仁というところを集めてみなさい」いうのです。

仁とは実徳なのです。理で分かるものではありません。

孔子は、「仁者は人を愛する」と言いました。孟子は「人は忍びざるところがある。これを忍ぶのが仁です」と言いました。

孔子孟子の説は、卑近でわかりやすくないですか?理で仁を求めていては、遠くなりわかりにくくなるのです。」

 

突然感想

私が最初に習った武道の先生は、とても恐ろしく、また強い方であったが、

「武道で強くなるためにはどういうことが必要ですか?」と問われると、

誰から聞かれても、いつも「愛ですよ」と答えておられた。

当時は、どういうことなのかさっぱりわからなかったし、愛なんか何の足しにもならないじゃないかとすら思ってひたすら稽古をしていた。

その後、いろいろなことがあって別の武道を継続しているが、今は、この延長にあることがわかるような気がしなくもない。(← いや、わかっていない)

 

童子問 上巻 第40章

「仁を識り難いのはなんででしょうか」

「仁を得ることは本当に難しいです。仁の理を識るということにおいては難しいことなどありません。

道を学ぶ者がその方を失っているので、勝手に難しくしているのです。

昔の人の学は、徳行を根本としていました。ちょっと後の人の学は理を極めることを主にしています。これこそが仁がわかりにくくなった理由です。

仁は愛を主としていますが、徳は人を愛するよりも大きいということはありません。

理を極めることを主体とすれば、理だけを求め、心は高遠なことをもてあそんで、力を尽くして、愛を仁のためのものにしてしまい、軟弱で浅いもの、日常のものに引き寄せてしまい、これを軽蔑する気持ちになって、向上する道がここにないと考えてしまうでしまうでしょう。口ばっかり上手になって、道を求めることとは程遠く、孔子の高弟、仲由、再有、公西華や、当時の賢い人たち、尹子文、陳文子の流れと雖も、みな仁を以て許しを得たのではないので、これを求めていない。ほかの意見を海、人を天理の公とし、理に当たって私心無しとするように議論が沸き上がり、仁からどんどん離れてしまう。だから私は言うのです、「仏教や道教がわが儒教と違うのは、義にあります。儒教の聖人との差は仁のあるなしです」と。

これが仁が識りがたいゆえんです。

童子問 上巻 第三十九章

「仁を第一とするのは何でですか?」

「仁の徳は大きいのです。ただ、一言で表すなら、愛です。

君臣の関係性なら、義と言いますし、親子なら親、夫婦なら別、兄弟なら叙、友人ならば信。これらはみな愛から出てくるものです。愛は実心です。君子慈愛の徳よりおおきいものはないでしょう。残忍刻薄のこころよろひどいものはないでしょう。

孔子一門が仁を以て徳のトップとするのは、このためです。

だから仁が第一なのです。

徳を知らない者にはこれはわからないでしょう。また信じることもできないでしょう。

そして、必要ないとして別の道に去り、哲学的に難しいことを難しく語り、実体のない空虚なものに耽り、人を理とし、知覚として、日常に使うことができない。だから、徳を知らない者に仁を言っても、わからないだけではなく、無駄なのです。

忠信を主として、論語孟子を熟読して、実徳を求めることを以て心とすれば理解できるでしょう。昔の人の過ちを繰り返してはなりません。」

童子問 上巻 第三十八章

「先生、忠信は本当に美徳だと思います。でも、信を好んで学を好まなければ、賊になってしまうと陽貨篇にあります。必ずしも悪くないとは言えないのではありませんか?」

「その通りです。学而篇で、「信が義に近いときはその通りにできる」と言います孟子が言う通り、「大人の言うことは必ずしも信であるとは限らない、必ず実行するとも限らない。ただ、義のあるところのままにする」との通りです。ただ、いたずらに信を好んで、義に遭わないようであれば道に害があります。しかし徹底的にに貫き通せば、必ず忠、信であり、その後に言うことになります。もし、内面で忠信を尽くさずに少しでも漏れがあるときには、義も一緒に亡くなってしまうでしょう。何の学問と言うことがあるでしょうか。蓋し、者に接する間、欺かず、いつわらず、徹底的に真実であることを曲げなければ、忠信となるでしょう。状況に応じて自在に変化して失わないのは義の力です。忠信と言うのは万事の根本であり、義とは学問の大用です。だから、学ぶ者は忠信をもって元として、義を以て勝つのです。だから、忠信を主として義を行なうことが徳を尊ぶということになるのです。ご存じの通り、「十人くらいの村でも駆らなず、忠信が丘くらいのやつはいる。でも丘が学問を好むように好む人はなかなかいない」というのがありますよね。忠信は本当に美徳なのです、しかし、学問を以てこれをしなくては善となりえないのです。学者はこのことをもっと考えなくてはなりません。」

 

童子問 上巻 第三十七章

「忠信を主とする時には敬は必要ないんですか?」

「そんなことはない。「言忠信、行い篤敬」と言うではないですか。

また、「居処恭しく、事を執るに敬し、人と忠あり」とも言います。

敬もまた聖学において、修養すべきものです。つぶさに、きちんと積み上げられた教訓があります。廃することはありません。聖人が人を教えるに、その工夫は一端ではないのです。積み上げていって、初めてその徳を成すことができます。これはお医者さんが病気を治すようなものです。薬に君臣佐使があります。処方に七方十剤があります。それらの薬が全部そろって初めて病を治すことができます。だから、「知仁勇」とか「忠信篤敬」とか「恭寛信敏恵」とか「忠信を主として義にうつる」とか言うのです。ことごとに教えがあり、人に対して方を示しています。ただ一つを守るだけで徳が成せましょうか。それでもなお忠信というのは薬で言うところの甘草のようなものです。欠くことができないのです。いろいろな工夫があるとはいえ、これが主でなくてはなりまえん。宋儒が持敬というのは昔の人が敬を大事にしたというのとは、もう、違ってしまって、忠信を以て主とすることなく、ただ、敬だけで学問をまとめてしまおうという態度です。一つの薬でなんでも直そうというようなもので、これでは道を誤ります。」