読む/書く

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 第9章

「人の外に真理はない。というのはどういう意味ですか?」

「人とは何か。君臣であり、父子であり、夫婦であり、兄弟であり、友である。8章で言ったよううにいわゆる五達道である。道は一つだ。これが君臣であるときには、義という。父子であるときには親という。夫婦であれば別といい、兄弟なら叙という、友であれば信という。みな人によってあらわれてくる道の姿である。

人がなければ道を見ることはできない。だから、「人の外に真理はない」というのだ。」

「では道の外に人生無し。というのはどういういみですか?」

「道とは何か。仁、義、礼、智である。人はその中にいて、少しも離れることができない。離れたら人間でない。だから道を外していきることができないのだ。天地の外や大昔や遠い未来を説いて人倫や天下国家を治めることに役立たないのは邪説の親玉だ、

もし宇宙の外に宇宙があったとしても、人があるのであれば、必ず君臣父子夫婦の倫があり、仁義礼智の道にしたがっているだろう。

だから、道は人によってあらわれ、人がなければ道は見ることができないというのだ。良くこの説を聞いて、変な説に惑うなよ」

童子問 第8章

「わかりやすく、実行しやすい、普遍のことわり。実に至極であり、ということはよくわかりました。しかし、心の中で釈然としません。わかりやすくさらに教えてくださいませ。」

「人の外に道はなく、道の外に人は生きられない。人は人の道を行なうのですから、わかりにくく実行しにくいことのはずがない。人がいかに霊長といっても、羽があるもののように空を自由に飛ぶことはできないし、鱗があるもののように水の中を自由に泳ぐこともできない。これはその「性」が違うからなのだ。孟子で、堯の服を着て、堯の行ないをして、堯の言葉を暗誦していれば、あなたは堯なのだというのは、その道が同じだからである。だから、孟子は「道は一つだ」というわけだ。

もし、人倫を外れておきながら、道を求めようとするのは、風を捕まえておこうとしたり、影を捕まえようとするようなもので、絶対に手に入れることはでき、ない。

だから道を知る人はこれを近くに求めるものなのだ。道を、崇高なものとしすぎたり及ぶものではないと考えるのは、道の本来の姿ではない。自分から迷っているのだ。だから、孔子は「中庸の徳というのは究極のものであるけれど、実現している人は少ない」とおっしゃる。キミは、自分の耳目の及ぶ範囲の外にさらにとんでもなく素晴らしく、驚くべき楽しい理があるとおもっているかもしれない。だが、それは違う。

天地の間には、ただ一つの実態のある理があるだけなのだ。奇妙なことや特別なことなんかない。人類が始まって以来、いわゆる五達道、つまり君子がいて臣がいる、親子があり、夫婦があり、兄弟があり、友がある。これらはお互い親しみ、愛し、従い、集まり、善きものを善とし、悪しきものを悪とし、是なるものは是とし、非なるものは非とし、大昔もこうだったし、遠い将来もそうあるのだ。キミが孝弟忠信、身を修め、仕事にはげみ、日々怠らなければ、自然と天の道にかなって、人倫にもとることはないし、人としての道を外すことはない。詩経にいう「いつも反省して天の命に従うようにして、自分の行為によって、たくさんの幸福を求める」だ。

もし、キミに素晴らしく尊く、光明がきらめき、驚くような、楽しいような理で、説教する奴がいたら、野狐や山の鬼が君をだましているか、邪説のはじまりだ。耳を貸してはいけない。」

 

小言

少し読みなれてきたのか、読めるようになってきた気がする。

真理は、知り易く行い易く萬世不易の理 なのだ。

昨今YouTuberでもnoteでもはてなでも、あるいはほかのブログなどでも、鬼面人を驚かすような奇説珍説、陰謀論を述べ再生回数を稼ごうとする輩があふれている。

普通に考えて、耳を貸す価値は、まぁないと言ってよいだろう。

そういう時、なにを読み、何を信じていくのか。結局知り易く行い易く萬世不易の理にほかならない。ティリングハストが投資で災難を回避するための5つの原則にしても、ウォーレンバフェットのBRKの投資方針にしても、そういうことだと考える。

 

童子問 第7章

「先生はすでに孟子論語の解説本であるとおっしゃいました。すると、学ぶ者は論語を読んで、孟子は読まなくていいのではないですか。」

「それはちがいます。註釈するとは、論語に通じることを求めることです。学ぶ者が孟子を熟読しなければ、絶対に論語の真髄にいたることはできません。いったら孟子とは論語渡し船とでもいうべき案内書なのです。論語は専ら仁義礼智を収める方法を説いており、いまだかつて、その真髄を発明していない。孟子の時代には、もう世の中はしっちゃかめっちゃかだった。だから孟子は学ぶ者のために、懇切丁寧にその真髄を切り分け、そのことわりを明らかにして、丁寧に詳しく余すことなく説いた。

だから、孟子に通じて、その後に論語の真髄がはじめて明らかになるのだ。

孟子はいう『他人のわざわいを見ていたましく思う心が、仁の根本である。自分や他人の不善を恥じ、にくむ心が義の根本である。謙遜して譲る心が礼の根本である。是非の心が智の根本である』

また、孟子はいう『人は皆忍ばないところがある。これを忍ぶようになるのが仁である。人が皆しないところがある。これをするようになるのが義である』

これらは孟子のおっしゃるところの仁義礼智の説明である。

学ぶ者はまさにこの語によって、己の身を通して熟読して、その後でこれを論語の解読に生かすのだ。これで初めて論語の意味があきらかにわかる。もし孟子を読まずに、論語を字面だけで分かろうとしたならば、単にその意味が分からないばかりではなく、必ず大いに道を誤ってしまう。

例えば、さっき説明した仁義礼智のない人間は、まさにそうだ。

だから、孟子の書は単に論語を読むために役立つだけではなく、実に学ぶ者にとって役に立つのだ。孟子論語とならび称されているのは、こういうわけです。」

 

 

きょうのことば

義疏(ぎそ ぎしょ)文章または文字を解釈したもの

蓋し(けだし)まさしく、もしかしたら、あるいは、ひょっとして、だいたい

浸筏(しんばつ)渡し船、津は渡し場。

辭譲(じじょう)辞譲、謙遜して譲ること

較然(こうぜん)あきらかに

童子問 第6章

「先生、論語は簡単で分かりやすくて、六経は奥深くて読みにくいです。なのになんで六経の上に論語の教えが君臨する。と説明しているのですか?」

「程氏がこう言っているだろう「論語の教えがわかった時には、六経のことは学ばなくてもわかってくる」と。六経の道は、平らかでまっすぐで通りやすく、普遍の道である。しかし、論語孟子をよく理解してから、六経を学ぶことに利益がある。そうでなければ六経は内実のない空虚なものとなって現代に役立てることができない。この三大の彝器を机の上において、日用品として使わないようなものだ。後世の儒者が、易経や春秋を解説しているが、その説が、奇妙奇天烈なもので、日用から遠いのはこのせいだ。詩書もそうだ。程子の易経の解釈だけが他の儒者と一線を画し、良いものであるのは、論語孟子の理からちゃんと読み解いているからだ。論語は他の六経より一段高いものなのである。」

 

小言

 

きょうのことば

彝器 (いき) 殷周時代の祭祀用の青銅器。釣鐘、鼎など。

童子問 第五章

「世間の人は皆、論語は簡単で共感しやすく、意味も親切でわかりやすいとしています。論語が本当に広く深く、こんなにわかりにくいということを知りません。先生のお考えを教えてください。」

論語は聖人がど真ん中の心でど真ん中の道を説いている書である。だから、ど真ん中の人にはこれがよくわかる。キミはわかりにくく、実行しにくく、高遠なものを至道であるとして、わかりやすく、実行しやすく平らかで親切なものこそが、不変で究極の理であることをわかっていない。

わかりにくく、実行しにくく、高遠な説は、異端のヨコシマな説でしかない。

わかりやすく、実行しやすく、平らかで親切なのは、まさに明君の道であって、孔子の教えの根本、論語の主題である。

孔子は古今のことを見、あらゆる聖人の教えを選び、特に堯舜の真理を基本として発展させ、文王、武王の方法を守りながらひろめ、ここから、わかりにくく、実行しにくく、混ざり合って広く、わかりにくい説を退けた。そして実行しやすい普遍的で究極の道を立てた。これを人民の規範とし、門人に伝え、後世に残してくださった。だから論語こそは、実に最上至極宇宙第一の書なのである。孔子のような聖人は以降出てきてはいない。堯舜にまさるような者は孔子だけなのだ。そして孟子論語に次いで孔子が言いたかったことを書いているのだ。

孟子には「堯舜の道とは、突き詰めれば年長者に向かってよく奉仕することだ」とある。わかりにくかったり、実行しにくかったり、高遠な説を、邪説、暴行として徹底的に排除して、孟子はひたすらに仁義ということを言う。

この仁義こそが論語そのものなのである。

学ぶ者はこれを知って、論語孟子を読むべきである。

そうしなければ、どんなに字を句を細かく解釈して、絹糸のように詳しく、牛の毛のように緻密に読み込んだとしてもそれは論語孟子を侮ったことになる。こんな読み方をしていて尊重しているとか信じているとか言えるものか。今までの学者は皆論語を、孔子一門の問答集として扱っており、論語こそが他の六経の上に突出していることを知らない。孔子の説いた道が後世である今はっきりしていなかったり、実行されていないのは、このせいである。学ぶ者は道を明らかにしていかなくてはならない」

 

 

 

小言

 

今日のことば

「喩」教え諭す

「堯舜」古代中国で徳を以て天下をおさめた堯と舜から、賢明なる天子のこと。明君。

「磅礴」ほうはく まじりあって一つになること 広がり満ちること

 

童子問 第四章

「いわゆる宋学の先生方である朱熹朱子学や王守仁の陽明学とか禅とか荘子などを見ると議論の言葉は格調高く、難しいので本当にその言葉がりっぱなのだろうと思います。論語はとても平易であんまり意味ないんじゃないかと思ってしまいます。どうでしょう。」

「難しく奇を衒うような文章で、スッとわからないようなものは、実はかえってわかりやすい。ただ、論語はわからないと思う。至言といわれるようなものは曖昧だ。邪説は人を動かしやすい。至言といわれるような曖昧な言葉は、わかりにくい。邪説は人を動かしやすいので、自覚ないままに、自ずからそこに落ち着いてしまう。温厚和平、従容正大な者でなければ論語の真髄に通じることができない。気性が偏っていて、奇にふけって高きに騖する者は通じることはできない。今、キミは論語孟子以外で早く真髄に達しようと思っている。これはすぐに悪い習慣に陥り、その後救うこともできなくなる。近世の学者と同じような過ちを繰り返してはならない。昔、漢には五経博士という役職があったが、論語博士はなかった。論語は言葉は平淡であり、意味は深い。漢の人と言えども論語の理に至り、道に至り、広く高く六経の上に出ていることを知らなかった。程子は「論語孟子を既に治めたならば、他の六経は治めなくともすべてわかる」と言った。この論は本当に古今の名言である。

たいてい言葉がわかりやすく理屈が明確で、知りやすく、覚えやすいものは必ず正しい。言葉が難しく、理屈が複雑で、知りにくく、覚えにくいことは、必ずろくでもない。

キミがこれを求めていけば、天下の書において、まず間違いはない。」

 

 

 

小言

これ、ちょっと矛盾していないか?

簡単なことをこんなに難しく書いておいて...江戸時代の人には簡単だったのかもしれない。現代人にとっても簡単なように読み解かなければ。

 

今日のことば

艱渋(かんじゅう)難しい

泛然(はんぜん) 曖昧なさま、おおざっぱなさま

窠臼(かきゅう) 安住してしまうところ。落ち着けると満足してしまうところ。(否定的な意味)

騖(は)     走らせる

 

 

「童子問」 第三章

童子問 第三章

「もう少し詳しく教えてください」

「五穀、というのを知っているか?天下の美食を論じていくと、五穀に極まってしまうんだ。八珍や醍醐と呼ばれるような美食でさえも五穀を常に食べるように食べるわけにはいかないだろう。そして五穀を食べなければ死んでしまう。美味はたしかにしばらくは美味しいけれど、これらばかりを食べていたら、病気になってしまう。昔の人は、変わった食べ物ばかり食べていると変わった病気になるといったものだ。論語の道というのは、つまりコメだ。これを世界中に広げ、未来に伝えて止まないことだ。患うべきは人が論語を知らないことだ。」

 

小言

急に五穀を知っているかなどと、「美味しんぼ」の海原雄山のようなことを言い出すのかと思ったが、安定の仁斎先生で安心した。

熱く熱く論語がすばらしいということを語る。

 

今日のことば

ここはなんとか読めた。