論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

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童子問 第14章

「中庸には性道教から説き始めています。今道を上として、教が続いていると先生は説かれました。性をもって道をつくして教えをうける素地としていますその言葉を措いているのは同じでないのはなぜですか」

「中庸の理と同じことを言っているのです。ただ、注釈をする人たちが間違った説を説いています。中庸でいうところの聖人の道というのはもともとひとの性質が自然にしたがって、離れず、諸子百家が自我を発揮し、人倫や日々の暮らしとかけ離れて道としているようなものではないです。だから、中庸に「性に従うこと、これを道という」といったり、「離れるのは道ではない」と言ったりしているのです。性とは、天与のものであり、人それぞれに固有のものであります。もし性に従うとか従わないとか論じるときには、道が正しいとか間違っているとかいうことではないのです。そのため中庸はまず性について説いているのです。性が教えよりも貴いということを言っているのではないのです。では、道とは何でしょうか。父子の関係ではこれを親といいます。上司と部下では義といいます。夫婦では別といいます。兄弟では序といいます。友人では信といいます。世界中昔も今も同じかくあるべきというところです。諸子百家はそれぞれその道を道として、性に従うとかそうでないということは論じていません。これでは異端となってしまいます。人がその性質に従って離れないこと、それが道です。そうでないときには道ではありません。だから聖人の道は、人の性質と離れて独立して存在するのではありませんし、性から道が出てくるのでもありません。朱熹は、「人がその性質に従えば時、日々の暮らしに道がある」と言いますが、これは逆なのです。性というのは己にあるものを言います。道とは天下に達するものを言います。易経には「人が道を立てる仁義という」とあります、これなのです。人がいれば性はあるのです。人がなければ性はありません。道というのは、人がいようがいるまいが、本来道があるのです、天地に満ちて、人倫に深くしみこみ、ないときもない場所もないのです、道とは、性が自然に従うからその後出てくるというようなそんなくだらないものではないのです。朱熹が言う性が先にあって道があとなどというのは間違っているのです。」