読む/書く

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 第四章

「いわゆる宋学の先生方である朱熹朱子学や王守仁の陽明学とか禅とか荘子などを見ると議論の言葉は格調高く、難しいので本当にその言葉がりっぱなのだろうと思います。論語はとても平易であんまり意味ないんじゃないかと思ってしまいます。どうでしょう。」

「難しく奇を衒うような文章で、スッとわからないようなものは、実はかえってわかりやすい。ただ、論語はわからないと思う。至言といわれるようなものは曖昧だ。邪説は人を動かしやすい。至言といわれるような曖昧な言葉は、わかりにくい。邪説は人を動かしやすいので、自覚ないままに、自ずからそこに落ち着いてしまう。温厚和平、従容正大な者でなければ論語の真髄に通じることができない。気性が偏っていて、奇にふけって高きに騖する者は通じることはできない。今、キミは論語孟子以外で早く真髄に達しようと思っている。これはすぐに悪い習慣に陥り、その後救うこともできなくなる。近世の学者と同じような過ちを繰り返してはならない。昔、漢には五経博士という役職があったが、論語博士はなかった。論語は言葉は平淡であり、意味は深い。漢の人と言えども論語の理に至り、道に至り、広く高く六経の上に出ていることを知らなかった。程子は「論語孟子を既に治めたならば、他の六経は治めなくともすべてわかる」と言った。この論は本当に古今の名言である。

たいてい言葉がわかりやすく理屈が明確で、知りやすく、覚えやすいものは必ず正しい。言葉が難しく、理屈が複雑で、知りにくく、覚えにくいことは、必ずろくでもない。

キミがこれを求めていけば、天下の書において、まず間違いはない。」

 

 

 

小言

これ、ちょっと矛盾していないか?

簡単なことをこんなに難しく書いておいて...江戸時代の人には簡単だったのかもしれない。現代人にとっても簡単なように読み解かなければ。

 

今日のことば

艱渋(かんじゅう)難しい

泛然(はんぜん) 曖昧なさま、おおざっぱなさま

窠臼(かきゅう) 安住してしまうところ。落ち着けると満足してしまうところ。(否定的な意味)

騖(は)     走らせる