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童子問 第8章

「わかりやすく、実行しやすい、普遍のことわり。実に至極であり、ということはよくわかりました。しかし、心の中で釈然としません。わかりやすくさらに教えてくださいませ。」

「人の外に道はなく、道の外に人は生きられない。人は人の道を行なうのですから、わかりにくく実行しにくいことのはずがない。人がいかに霊長といっても、羽があるもののように空を自由に飛ぶことはできないし、鱗があるもののように水の中を自由に泳ぐこともできない。これはその「性」が違うからなのだ。孟子で、堯の服を着て、堯の行ないをして、堯の言葉を暗誦していれば、あなたは堯なのだというのは、その道が同じだからである。だから、孟子は「道は一つだ」というわけだ。

もし、人倫を外れておきながら、道を求めようとするのは、風を捕まえておこうとしたり、影を捕まえようとするようなもので、絶対に手に入れることはでき、ない。

だから道を知る人はこれを近くに求めるものなのだ。道を、崇高なものとしすぎたり及ぶものではないと考えるのは、道の本来の姿ではない。自分から迷っているのだ。だから、孔子は「中庸の徳というのは究極のものであるけれど、実現している人は少ない」とおっしゃる。キミは、自分の耳目の及ぶ範囲の外にさらにとんでもなく素晴らしく、驚くべき楽しい理があるとおもっているかもしれない。だが、それは違う。

天地の間には、ただ一つの実態のある理があるだけなのだ。奇妙なことや特別なことなんかない。人類が始まって以来、いわゆる五達道、つまり君子がいて臣がいる、親子があり、夫婦があり、兄弟があり、友がある。これらはお互い親しみ、愛し、従い、集まり、善きものを善とし、悪しきものを悪とし、是なるものは是とし、非なるものは非とし、大昔もこうだったし、遠い将来もそうあるのだ。キミが孝弟忠信、身を修め、仕事にはげみ、日々怠らなければ、自然と天の道にかなって、人倫にもとることはないし、人としての道を外すことはない。詩経にいう「いつも反省して天の命に従うようにして、自分の行為によって、たくさんの幸福を求める」だ。

もし、キミに素晴らしく尊く、光明がきらめき、驚くような、楽しいような理で、説教する奴がいたら、野狐や山の鬼が君をだましているか、邪説のはじまりだ。耳を貸してはいけない。」

 

小言

少し読みなれてきたのか、読めるようになってきた気がする。

真理は、知り易く行い易く萬世不易の理 なのだ。

昨今YouTuberでもnoteでもはてなでも、あるいはほかのブログなどでも、鬼面人を驚かすような奇説珍説、陰謀論を述べ再生回数を稼ごうとする輩があふれている。

普通に考えて、耳を貸す価値は、まぁないと言ってよいだろう。

そういう時、なにを読み、何を信じていくのか。結局知り易く行い易く萬世不易の理にほかならない。ティリングハストが投資で災難を回避するための5つの原則にしても、ウォーレンバフェットのBRKの投資方針にしても、そういうことだと考える。