論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 第五章

「世間の人は皆、論語は簡単で共感しやすく、意味も親切でわかりやすいとしています。論語が本当に広く深く、こんなにわかりにくいということを知りません。先生のお考えを教えてください。」

論語は聖人がど真ん中の心でど真ん中の道を説いている書である。だから、ど真ん中の人にはこれがよくわかる。キミはわかりにくく、実行しにくく、高遠なものを至道であるとして、わかりやすく、実行しやすく平らかで親切なものこそが、不変で究極の理であることをわかっていない。

わかりにくく、実行しにくく、高遠な説は、異端のヨコシマな説でしかない。

わかりやすく、実行しやすく、平らかで親切なのは、まさに明君の道であって、孔子の教えの根本、論語の主題である。

孔子は古今のことを見、あらゆる聖人の教えを選び、特に堯舜の真理を基本として発展させ、文王、武王の方法を守りながらひろめ、ここから、わかりにくく、実行しにくく、混ざり合って広く、わかりにくい説を退けた。そして実行しやすい普遍的で究極の道を立てた。これを人民の規範とし、門人に伝え、後世に残してくださった。だから論語こそは、実に最上至極宇宙第一の書なのである。孔子のような聖人は以降出てきてはいない。堯舜にまさるような者は孔子だけなのだ。そして孟子論語に次いで孔子が言いたかったことを書いているのだ。

孟子には「堯舜の道とは、突き詰めれば年長者に向かってよく奉仕することだ」とある。わかりにくかったり、実行しにくかったり、高遠な説を、邪説、暴行として徹底的に排除して、孟子はひたすらに仁義ということを言う。

この仁義こそが論語そのものなのである。

学ぶ者はこれを知って、論語孟子を読むべきである。

そうしなければ、どんなに字を句を細かく解釈して、絹糸のように詳しく、牛の毛のように緻密に読み込んだとしてもそれは論語孟子を侮ったことになる。こんな読み方をしていて尊重しているとか信じているとか言えるものか。今までの学者は皆論語を、孔子一門の問答集として扱っており、論語こそが他の六経の上に突出していることを知らない。孔子の説いた道が後世である今はっきりしていなかったり、実行されていないのは、このせいである。学ぶ者は道を明らかにしていかなくてはならない」

 

 

 

小言

 

今日のことば

「喩」教え諭す

「堯舜」古代中国で徳を以て天下をおさめた堯と舜から、賢明なる天子のこと。明君。

「磅礴」ほうはく まじりあって一つになること 広がり満ちること