論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 第10章

「後世の学問は高く遠いところに向かっていき、論語の精神に背を向けて走って行く者がいるのはどうしてですか?」

「高いところにいる人は低いところを見る。だから、その言葉は自然と低くなる。

低いところにいる人は高いところを見る。だからその言葉は高くなる。当然のことだろう。だから、道徳が実践されているときには、議論はひくくなる。道徳が衰えているとき、議論はたかくなる。ちょうど、天秤ではかると対象が重いと下に行って、軽いと上がる。あんな感じだ。道徳が一分失われれば、議論は一分高くなる。道徳が二分失われれば、議論は二分高くなる。道徳が徹底的に失われれば、議論は徹底的に高くなる。

こうなってくると、仏道の人や老子思想の人が、人倫を無視したり、宋代の哲学者どもが、道を失ったようになってしまう。

ただ、これだけのことだよ。

人は皆、議論が高いことを喜ぶが、実際には徳が失われ、衰えていっているせいだということを知らない。

孔子の教えを学ぶには、まず道徳によってだ。無益の論争をすることではない。

空に太陽が昇っているのに、あかりを灯す必要がないようなものだ。

だから、ただ、孝悌忠信を言えば足りるのだ。

孔子が「忠信を主とす」といい、曾子が「日に三省す」というだろう。これだよ。

学ぶ者はまさにその意図を知って、そして論語を読むのだ。後の世でいろんな学者が難しいことを言って、論語とさかさまに走って行ってしまうのは、皆、道徳が下り、衰えているからだ。」

 

きょうの言葉

趨く(おもむく) あるところに向かっていく