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童子問 22章

「学問は果たして人の天性の中にあるものでしょうか、それとも外にあるものなのでしょうか」

「内外一致です。内が外を助け、外が内を養います。両方があるのが本当です。たとえば人間の存在のようなものです。心、思うこと、知性、他人をおもんぱかることは、内ですね。見たり聞いたり動いたりすることは外です。前者だけやって、後者をやらなかったらどうなるでしょうか。ダメですよね。

生きていくのに必要な飲んだり食べたり薬を飲んだりとか、建物に住んだり服を着るとか、普通に使っている何百もの器具が外にあって生きていますよね。当然内外一致しています。どうして学問だけどっちかというのでしょうか。そんなことはありませんね。

木は土がなきゃ生えません。魚は水がなかったら死にます。でも木や魚から見れば、土も水も外ですね。それでいて少しも離れることができません。人間の学問が生きていくのに必要なものを外に得てはいけないことなんかありません。むしろ外を捨ててしまえば、木が土から離れ、魚が水から離れたようなもので、一日だって生きちゃあいられないでしょう。離れてはいけないのは当たり前です。

人の五倫と言われる親子の親、兄弟の睦と言ってももうすでに他人のことですよね。君臣、夫婦、朋友にいたっては、もっと遠い。ただ、義を以てあっているのです。でもこれを外と言っていいですか?いけませんよね。

内外というその文字自体昔の人の言うところと、現在の人の言うところは意味からして違いますね。昔は、内とは親しむという意味。外とは疎んずるという意味でした。大学にも、「本を外にし、末をうちにす」といいますし、荘子にも「内聖外王」というようなかんじです。

天性があるものを内とし、天性がない者を外として捨てるのは違います。

孟子の対話者である告子が、義を外にするというのも、これを捨てると言っているのではなく、義を外において行うことを言っています。

聖賢においてはそもそも内外の区別なんかありません。内外をごちゃごちゃいうのは後の世の儒学者のバカげた解釈です。」