読む/書く

ちょっとずつ読んで、書いてみる

人工知能か拡張知能か ーChatGPTと古典ー

 今人工知能と呼ばれているGPTについて、しばらく実証と検討をしてきたが、違和感を感じている。この違和感を言語化してみようと思って書いてみる。(2023/3/7時点初稿、3/8加筆修正)

 

 古典、といわれるものを精緻に読むとき、ひとは、文言の精密な検討からはじまり、著者の存在に参入していく。近頃おおいにばかにされている、国語のテストの筆者の気持ちうんぬんという程度の低い話ではない。あたかも剣術遣いが、剣と己の動きを一体としていくように、己の言葉として不自然さがないところまで心理感情を含めて著者と一体に参入していく。

 剣術遣いがカタを行なうとき、こう来たらこう、ああ来たらこう。というような単なる勝負の手を示すマニュアル、昆虫のような反応をするためだけにやっているのではない。意図するとせざるとに関わらず、おのずと自己の表現となっていく。

同様に古典を読み込んでいくとき、それを誰かに説明すると説明自体が己の存在を表現することになる。

 

 一方で、装置の運転マニュアルのような文章にはそういった要素はあまりないかもしれない。こういう文章は平均値的な意味を捉えることが求められる。平均値的な意味を求めるために、文章は一度、単語に分解されなくてはならない。単語に分解されたとき、単語は一度その実在を失なう。そのうえで、単語の平均値が示す虚像を集めていくことになる。実在を失った単語に平均値で意味を付けていくことで一意に捉えられる確率を上げていく。そういった作業が必要な文章であろう。

 

 前者ばかりでは多くの人はついてくることができないかもしれない。一方で後者一辺倒になり、前者のように読む本を持たない人ばかりになれば文明は失われる。否、すでに失われているのかもしれない。多少複雑なことをしているつもりでいても、後者のようなものの読みだけをしているとき、人間は昆虫とどこが違うのだろうか。

 

 後者の用途には、もっと頑張って開発していけば、人工知能や拡張知能が役立つ日が来るかもしれない。前者に役立つ日は来たら興味深いが、いまのところ来ることはなさそうだ。昔、IBMが開発したWATSONという拡張知能(Augmented Intelligence)があった。これは、論理と確率で、文献をまとめたり、最も人気のある回答を導くくらいの力はあったようだ。チャットGPTも似たようなアシスト力があることまではわかったが、すべてにおいて中途半端であり、特に嘘が多いのがいけない。2023年3月初頭時点での話に過ぎない。