野毛山動物園にラージャというインドライオンがいる。
檻に長くいるからか、ネコ科がリラックスしているときの習性なのか、定位置でじっと溜めがある姿勢でだらっとして、見物する人たちを一人ずつ観察して、ときどき思い出したように、「ガオ」と声を出す。
まるで遠くインドへの望郷の表情を浮かべている貌のように見えた。
その後、調べてみると15才の老ライオンは横浜市内のズーラシアで生まれ、野毛山の檻しかしらないはずで、インドという概念など持ち合わせているはずもないのである。
当然、インドへの望郷など持つはずもない。
ライオンが自己をインドライオンだと認識したり、種の起源がインドにあることやいったことのないインドに帰りたいという望郷の念のような抽象的な概念を抱いたりそれを自覚することはないはずだし、そういう知能はないだろう。
一方で、見物人を見分けたり、檻から外に出ることができないことを記憶していたり、夕方になってくれば、そろそろ室内に入る時間であるということなどの認識をする知能はある。
いわゆる人工知能が知能を持つというとき、その知能とはどの程度を指すのだろうか。
ゲーデル・エッシャー・バッハには、AIらしきものが出ると人はそれは知能ではないと否定するというようなことが書いてあった記憶があるが、そういう人間の思い込みだろうか。