論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 上巻 第30章

子夏は『まだ学んでいない人であっても。私は必ずこれを学んだ人といおう』と言いました。

また、呉氏は「詞気の間、抑揚太だ過ぐ、その流れの弊、将に或は学を廃するに至らんとす」と言っています

先生の教えは子夏と同じ弊害を持っているように思います。真直ぐにしようとしすぎてはいませんか?

お前は何と子夏を軽んじているのだ。

子夏は孔子の高弟であり、聖人に近いところに長いことおられた。

本当に深くその意を得ている、論語を編集した人も、本当に孔子一門の学脈を知っていなければならない。

その第一篇第七章に安易に掲載したりするだろうか?

深い意味があるのだ。

いろいろな弟子の語を孔子の言葉と同じように掲載しているのだから、これを孔子の言葉の次に尊ばなくてはならない。これを軽々しく論ずるなど、孔子の言葉を侮っているも同然だ。懼れというものを知りなさい。

学が起こってからというもの、いろいろな儒者がいた。

孔子一門の弟子、子夏、子張、有若、樊遅の弟子と言えども蔑視することがある。朱熹は呉の説を採用してこれを集註に入れてから、そのような議論が増えてきて害悪が増している。

書物による学問は、過剰になり、徳の行ないは及びにくい、学者と言うのは、こういう傾向があり、さらに書物による学問ばかりをして、徳を積まない。

火を火に添えたり、泥に泥を加えてどうするんだ。

詩経にも「猿に木登り教えるな。泥に泥を付けているようなもんだ」とあるじゃないか。