論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 上巻 第56章

「仁を性だとすると虚ろになる。とおっしゃる意図は何ですか?」

「仁とは天下の美徳です。誰が性質だとして分けることができるというのか。もし宋儒の説明に従って仁を論ずれば、性質というのはまだ出てきていない者であり、情というのはすでに出てきたものです。

性質というのは水が土のなかにあるような状態です。情というのは水源から水が湧いて出てくるようなものです。その水を同工事して使うのかはその後の話です。地中にあるときには如何ともしがたいのです。仁義礼智を性質であるとしたら、まだ水の中にあるということになりますので何ともできません。だから後世の学問は仁義を育てるのではなく、無欲であれ、静かに保てと言い、明鏡止水だとかいって仁義を覆うものを除いて原点に戻ろうとするのです。そうなると仁義はただ虚ろになって、欲をなくすことを上位に置いてしまう。孟子は『仁は人の心である。義は人の道である。その道を捨てて心を放ち求めない。学問の道は他にない、ただ、心を手放すことである』という。孟子集注では『心を放つことを求めれば、仁であるようになる。義は自己の内に出てくる』という。まるで水に月が映るように仁があるという。水の波がおさまれば月がきれいに映り、波立てば月は乱れる。だから心を静かに保てという。水の側すなわち心の側を静かに収斂させることにある。

しかし孟子がいう心を放つとはそういうことではない。むしろ仁義の良心を放ち失うことを言うのです。心を静かに保つとか言って、眠らせ失うようなそういうことではない。

孟子はまた『人を害そうとすることがない心を充ちさせ、仁はたくさんあって全部を使い切ることができない。義もたくさんあって全部つかいきることができない』宋儒は心を静かに保つために眠らせ失うことだけをして、仁であり、義をもつようにあろうとしない。道からめっちゃくちゃに離れている。心を静かに保つということを主にすると、却って仁義の良心がダメになってしまう。これが孔子孟子が言おうとしたことでしょうか?そんなことはない。

仁を性質であるとするときは論語孟子ともに仁が役に立つということを説いても体現することができない。韓愈が情を知って性質を知らないのと何が違うというのか、少しは考えろよ。」