第十八回 放浪遊歴時代(1)
・顔淵と子路。「これを用うれば則ち行ない、これを舎(す)つれば則ち蔵(かく)る、ただ我と汝と是れ有るかな」と顔淵をほめ、「暴虎馮河、死して悔い無き者は、吾、与せざるなり」と子路をたしなめた孔子だが、誰も理想を実現しようとしないならば、筏に乗って海に出よう。その時ついてくるのは子路くらいか…などと勇気は必要だけれど、好みすぎるのも良くない、
・君子勇有りて義無ければ乱をなす。小人勇有りて義無ければ盗を為す。
・勇には義がなくてはならない。これは史記の記載での二人の殺害を信じたくないから
・論語にはこの間の記載はあまりないが、徐々に重臣の間で不人気になっていき、外国勢力(斉)からの圧もあった。この圧は堕落へ導くために楽団やサーカスのようなものを送るものだった。三日、殿様は出仕しなかったので孔子は去った。
・この後、14年放浪することになる。
・各国で地位を求めたかについては、温良恭倹譲であるから自然となったという子貢の説があるが、そのくらいいたるところの国々で理想を説いて回った。売り込みには熱心だった。
小言
義の必要性はあるけれど、それを前面に押し出せば、それはまた、受け容れ難くなってくるのかもしれない。
3日欠勤したことで14年放浪に出たというのは、その前にいろいろ思うところがあったのだろう。