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童子問 21章

こども「学問の素晴らしいことはすごいですね。その詳細を教えてください」

「宋明の儒の先達である朱熹らは、皆、天性がすべてであってこれを至上とし、学問の意味が非常に大きいことを知らない。だから、天性には限りがあって、天下の道には窮まりがないことを知らない。天性には限りがあると言えども、窮まりのない道を求めるのであれば、学問をするしか方法はないのだ。孔子が専ら教えを尊ぶのはそのためである。中庸に『天下の至誠は、ただその天の性を尽くす。己の性を尽くすというのは、他者の性を尽くすということになる。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地の化育をたすける。これが天地と共にあるということになる』とある。能く其の性をつくすというのは自分の内部のことである。その人物の性性をつくして天地の化育をたすけるというところにいたっては、己の性をつくすということからきているとはいえ、もう自分のことだけではないだろう。

他人と自分とは体も、気も違う、間隔だって全然関係ない。ましてやい人とモノだったらもっと違う。どうして干渉するようなことがあろうか。天地の道が交わって泰となると易に言うように万物がその天性を遂げるというようなときにはあるかもしれない。これを己の性をつくすと言っていいのでしょうか。

このような結果は、ただ天性をつくして、学問の功ではなく得られるようなものではないのです。

これを薪でご飯を炊くことにたとえてみましょう。

ひとたばの薪で一升の米は炊けますが、一斗のコメは炊けません。十たばの薪で、一斗のコメが炊けますが、一石のコメを炊くことはできません。一石ものコメを炊くには、車いっぱいの薪を用いなくては炊けません。一束の薪で一升のコメを炊いたり、十束の薪で一斗のコメを炊いたり、車いっぱいの薪で一石のコメを炊くのは、その性をつくすということになります。一束の薪では一斗のコメを炊けないし、十束の薪では一石のコメを炊けないというのは、性分が及ばないからです。

風に向かって火を噴いて、薪を添えてあげれば、ちょっとの火でも大きな建物ですら、燃えてしまいます。ちょっとの火で原っぱが焼けてしまうようなものです。その勢いたるや、猛烈なものであり、簡単に消せるものではありません。これは一束の薪の力でしょうか?違います。人が志をたてて、あきらめず、たえず学び続けるとき、聖となり、賢となるのです。これで初めて、天性をつくし、天地の化育をたすけるということになります。教というのはこういうものです。

孟子が言うところの拡充ということはこのことを言うのです。

だから、孟子では『源泉がこんこんとして、昼夜を問わず、穴に満ちて進んで四海にいたる』と言うのです。天下の水というのは東三向かえば東海に、西に行けば西海に入るものです。ここで孟子がいう四海にいたるとは一体何でしょうか。

拡充が積み重なっていけば窮まりがないということを言っているのです。

さらに浩然の気について『真直ぐになるときには天地の間にふさがる』と言います。自分の気というのもまた限りあるわけで、天地の間に広がるというのも、気を養っていけば、至らないところはないまでに拡充するということでしょう。朱熹は押し広げて、そのもともとあるべき量を満たすと限界があるように拡充の事を言いましたがそれは違います。

一升の水を一升の器に入れる。一斗の水を一斗の器に入れる。それがもともとあるべき量を満たすということです。

孟子が言うところの拡充というのは推広充大の勢いをとどめやめることができないことを言います。本来の量がどうしたとかそういうレベルの話ではないのです。

朱熹はここを理屈を以て断じて孟子の本意がわかっていないのです。」