読む/書く

ちょっとずつ読んで、書いてみる

童子問 第15章

論語は教えだけを言っており、道はその中にあるとすでに伺いました、孟子は道だけをいっており、教えはその中にあると伺いました、どういうことでしょう?」

「道とはなんでしょうか。仁義のことです。孟子の書では仁義を以てその中心としています。七編ありますが仁義の二文字から抽繹されないものはありません。性善説を唱えているのも、ただ、その理を発明したのではありません。人が己の性が善であることを知って、これを弘めようとする、だから「こころをつくす者はその性を知る」というし、「いやしくもこれを満たさなければ、父母に孝行することができない」とか「それを養うことで長じることができ、養うことがなくなれば消えてしまう」とか言います。これはもともと持っている性が善いことにたよるのではなく、拡充していくことを怠るってはいけないことを言っています。だから「孟子は道を言い、教えはその中にある」というのです。人は額を好むと言っても、志を持ち、学問をし、自暴自棄にならない者は千人に一人二人です。だから性善の説は仁義そのものが固有であることを明かしていますが、実は自暴自棄の者のためなのです。」

 

小言

稽古を継続し続けることはどれほど人に説明しても困難なようですね。

童子問 第14章

「中庸には性道教から説き始めています。今道を上として、教が続いていると先生は説かれました。性をもって道をつくして教えをうける素地としていますその言葉を措いているのは同じでないのはなぜですか」

「中庸の理と同じことを言っているのです。ただ、注釈をする人たちが間違った説を説いています。中庸でいうところの聖人の道というのはもともとひとの性質が自然にしたがって、離れず、諸子百家が自我を発揮し、人倫や日々の暮らしとかけ離れて道としているようなものではないです。だから、中庸に「性に従うこと、これを道という」といったり、「離れるのは道ではない」と言ったりしているのです。性とは、天与のものであり、人それぞれに固有のものであります。もし性に従うとか従わないとか論じるときには、道が正しいとか間違っているとかいうことではないのです。そのため中庸はまず性について説いているのです。性が教えよりも貴いということを言っているのではないのです。では、道とは何でしょうか。父子の関係ではこれを親といいます。上司と部下では義といいます。夫婦では別といいます。兄弟では序といいます。友人では信といいます。世界中昔も今も同じかくあるべきというところです。諸子百家はそれぞれその道を道として、性に従うとかそうでないということは論じていません。これでは異端となってしまいます。人がその性質に従って離れないこと、それが道です。そうでないときには道ではありません。だから聖人の道は、人の性質と離れて独立して存在するのではありませんし、性から道が出てくるのでもありません。朱熹は、「人がその性質に従えば時、日々の暮らしに道がある」と言いますが、これは逆なのです。性というのは己にあるものを言います。道とは天下に達するものを言います。易経には「人が道を立てる仁義という」とあります、これなのです。人がいれば性はあるのです。人がなければ性はありません。道というのは、人がいようがいるまいが、本来道があるのです、天地に満ちて、人倫に深くしみこみ、ないときもない場所もないのです、道とは、性が自然に従うからその後出てくるというようなそんなくだらないものではないのです。朱熹が言う性が先にあって道があとなどというのは間違っているのです。」

童子問 第13章

「性道教についてさらにくわしく教えてください」

「道にいたること、これについては論ずるまでもないでしょう。しかし、道が人を聖賢にするのではありません。論語にいうところの『道が人を弘めるのではない』という通りなのです。人が己を聖賢たらしめ、天下のために志を立て、人のために道を立て、この世を去った聖人のために学問を継ぎ人類の今後のために太平を開く。こういうことをするのは皆、教えによるのです。これが論語にいうところの『人が道を弘めるのである』ということです。

だから、道が上で、教えがそれに続くのです。しかし人間が鶏や犬のようにバカな場合には、百人の聖賢が寄ってたかって教えてもバカは善にはならないのです。ただ善というものがあるんです。

道を説かれ、教えを受けるということは、がただ道の樹の名前を言えるように知識が増えることだけではないのです。だから生まれ持っての性というのもまた貴いものなのです。

これが性道教の違いです。

漢や宋の儒者の先人たちはここでいろいろ間違っています。道には害でしかない。キミはこれをつまびらかにしなくてはならないのです。」

童子問 第9章

「人の外に真理はない。というのはどういう意味ですか?」

「人とは何か。君臣であり、父子であり、夫婦であり、兄弟であり、友である。8章で言ったよううにいわゆる五達道である。道は一つだ。これが君臣であるときには、義という。父子であるときには親という。夫婦であれば別といい、兄弟なら叙という、友であれば信という。みな人によってあらわれてくる道の姿である。

人がなければ道を見ることはできない。だから、「人の外に真理はない」というのだ。」

「では道の外に人生無し。というのはどういういみですか?」

「道とは何か。仁、義、礼、智である。人はその中にいて、少しも離れることができない。離れたら人間でない。だから道を外していきることができないのだ。天地の外や大昔や遠い未来を説いて人倫や天下国家を治めることに役立たないのは邪説の親玉だ、

もし宇宙の外に宇宙があったとしても、人があるのであれば、必ず君臣父子夫婦の倫があり、仁義礼智の道にしたがっているだろう。

だから、道は人によってあらわれ、人がなければ道は見ることができないというのだ。良くこの説を聞いて、変な説に惑うなよ」

童子問 第8章

「わかりやすく、実行しやすい、普遍のことわり。実に至極であり、ということはよくわかりました。しかし、心の中で釈然としません。わかりやすくさらに教えてくださいませ。」

「人の外に道はなく、道の外に人は生きられない。人は人の道を行なうのですから、わかりにくく実行しにくいことのはずがない。人がいかに霊長といっても、羽があるもののように空を自由に飛ぶことはできないし、鱗があるもののように水の中を自由に泳ぐこともできない。これはその「性」が違うからなのだ。孟子で、堯の服を着て、堯の行ないをして、堯の言葉を暗誦していれば、あなたは堯なのだというのは、その道が同じだからである。だから、孟子は「道は一つだ」というわけだ。

もし、人倫を外れておきながら、道を求めようとするのは、風を捕まえておこうとしたり、影を捕まえようとするようなもので、絶対に手に入れることはでき、ない。

だから道を知る人はこれを近くに求めるものなのだ。道を、崇高なものとしすぎたり及ぶものではないと考えるのは、道の本来の姿ではない。自分から迷っているのだ。だから、孔子は「中庸の徳というのは究極のものであるけれど、実現している人は少ない」とおっしゃる。キミは、自分の耳目の及ぶ範囲の外にさらにとんでもなく素晴らしく、驚くべき楽しい理があるとおもっているかもしれない。だが、それは違う。

天地の間には、ただ一つの実態のある理があるだけなのだ。奇妙なことや特別なことなんかない。人類が始まって以来、いわゆる五達道、つまり君子がいて臣がいる、親子があり、夫婦があり、兄弟があり、友がある。これらはお互い親しみ、愛し、従い、集まり、善きものを善とし、悪しきものを悪とし、是なるものは是とし、非なるものは非とし、大昔もこうだったし、遠い将来もそうあるのだ。キミが孝弟忠信、身を修め、仕事にはげみ、日々怠らなければ、自然と天の道にかなって、人倫にもとることはないし、人としての道を外すことはない。詩経にいう「いつも反省して天の命に従うようにして、自分の行為によって、たくさんの幸福を求める」だ。

もし、キミに素晴らしく尊く、光明がきらめき、驚くような、楽しいような理で、説教する奴がいたら、野狐や山の鬼が君をだましているか、邪説のはじまりだ。耳を貸してはいけない。」

 

小言

少し読みなれてきたのか、読めるようになってきた気がする。

真理は、知り易く行い易く萬世不易の理 なのだ。

昨今YouTuberでもnoteでもはてなでも、あるいはほかのブログなどでも、鬼面人を驚かすような奇説珍説、陰謀論を述べ再生回数を稼ごうとする輩があふれている。

普通に考えて、耳を貸す価値は、まぁないと言ってよいだろう。

そういう時、なにを読み、何を信じていくのか。結局知り易く行い易く萬世不易の理にほかならない。ティリングハストが投資で災難を回避するための5つの原則にしても、ウォーレンバフェットのBRKの投資方針にしても、そういうことだと考える。

 

童子問 第7章

「先生はすでに孟子論語の解説本であるとおっしゃいました。すると、学ぶ者は論語を読んで、孟子は読まなくていいのではないですか。」

「それはちがいます。註釈するとは、論語に通じることを求めることです。学ぶ者が孟子を熟読しなければ、絶対に論語の真髄にいたることはできません。いったら孟子とは論語渡し船とでもいうべき案内書なのです。論語は専ら仁義礼智を収める方法を説いており、いまだかつて、その真髄を発明していない。孟子の時代には、もう世の中はしっちゃかめっちゃかだった。だから孟子は学ぶ者のために、懇切丁寧にその真髄を切り分け、そのことわりを明らかにして、丁寧に詳しく余すことなく説いた。

だから、孟子に通じて、その後に論語の真髄がはじめて明らかになるのだ。

孟子はいう『他人のわざわいを見ていたましく思う心が、仁の根本である。自分や他人の不善を恥じ、にくむ心が義の根本である。謙遜して譲る心が礼の根本である。是非の心が智の根本である』

また、孟子はいう『人は皆忍ばないところがある。これを忍ぶようになるのが仁である。人が皆しないところがある。これをするようになるのが義である』

これらは孟子のおっしゃるところの仁義礼智の説明である。

学ぶ者はまさにこの語によって、己の身を通して熟読して、その後でこれを論語の解読に生かすのだ。これで初めて論語の意味があきらかにわかる。もし孟子を読まずに、論語を字面だけで分かろうとしたならば、単にその意味が分からないばかりではなく、必ず大いに道を誤ってしまう。

例えば、さっき説明した仁義礼智のない人間は、まさにそうだ。

だから、孟子の書は単に論語を読むために役立つだけではなく、実に学ぶ者にとって役に立つのだ。孟子論語とならび称されているのは、こういうわけです。」

 

 

きょうのことば

義疏(ぎそ ぎしょ)文章または文字を解釈したもの

蓋し(けだし)まさしく、もしかしたら、あるいは、ひょっとして、だいたい

浸筏(しんばつ)渡し船、津は渡し場。

辭譲(じじょう)辞譲、謙遜して譲ること

較然(こうぜん)あきらかに

童子問 第6章

「先生、論語は簡単で分かりやすくて、六経は奥深くて読みにくいです。なのになんで六経の上に論語の教えが君臨する。と説明しているのですか?」

「程氏がこう言っているだろう「論語の教えがわかった時には、六経のことは学ばなくてもわかってくる」と。六経の道は、平らかでまっすぐで通りやすく、普遍の道である。しかし、論語孟子をよく理解してから、六経を学ぶことに利益がある。そうでなければ六経は内実のない空虚なものとなって現代に役立てることができない。この三大の彝器を机の上において、日用品として使わないようなものだ。後世の儒者が、易経や春秋を解説しているが、その説が、奇妙奇天烈なもので、日用から遠いのはこのせいだ。詩書もそうだ。程子の易経の解釈だけが他の儒者と一線を画し、良いものであるのは、論語孟子の理からちゃんと読み解いているからだ。論語は他の六経より一段高いものなのである。」

 

小言

 

きょうのことば

彝器 (いき) 殷周時代の祭祀用の青銅器。釣鐘、鼎など。