「道とは仁義のみであります。曾子はどうして『夫子の道は、忠と恕のみである』と言ったのでしょうか?」
「仁義は本当に道の全体であります。このことは説明するまでもありません。孔子の説いた夫子の道というのは、夫子が一人ですることを言います。夫子の家法であるというようなものです。さて、衛霊公篇に子貢が『一生すべきことを一言で表すと何でしょうか?』と問うと、孔子は仁とも義とも言わず、『恕だね』といいます。曾子と同じ意味ですね。この道を進む人にとって実行しやすいように説明してくださっているのです。さっきも言ったように恕ことで自然に仁となっていくのです。忠というのは己を尽くすことであり、その意味を分かることは難しいでしょう。でも、恕ということは難しくないですね。字書を引くと『己を以て人を體するを恕という』と書いてあります。この體っていいですね。深く人の心を體察する、つまり、自分の体を通して細かく調べよく考察すれば、自然と優しい気持ちになり、ひどいことにならない。だから恕というのはやさしさであり、人に接するとき深く相手の心を體察して、やさしい気持ちであれば、親しいもの疎遠なもの、貴賤、大小さまざまなものに仁が行われ義が達し、道がないところがなくなっていく。曾子が忠恕を以て孔子の道だとしているのはこのことです。
良い裁判のようなものです。罪は本当にあったとしても、その心を體察すれば情状酌量の余地があるのではないかと。周礼によると古代の中国の法では幼児、老人、精神病者は罪を免除され、また法の無知、過失、忘却の場合は減刑されていたといいます。これはこの恕ろうという頑張りなのでしょう。
または、恨みつらみがあっても同じことです。恕ろうとすることが必要でしょう」
ここで上巻おわり。
はて、たくさん本を読むブログをやっている著名な編集者が、童子問は53章で、その数に意味があるというようなことを書いていたが、いったいどういうことだろうか?(
)
単なる記憶違いならばそういうこともあるだろうが、章の数に意味があると繰り返すのならば、いったいどういう意味があるというのであろうか?
同人物は、童子問には「恕」ということは、「その思考と行動において他者を含んでいくことをいう」と記載している。そんなことは今のところ書かれていないようだ。
私は書いてあること、言及している関連古典に追いつくのに手いっぱいであるし、読んだことを自慢するために書いているのではないので、まぁ良いか。
世のたくさん読んだことをビジネスにしているような方というのはそういうものなのかもしれない。
この先を読んだらわかるかもしれないし
とりあえず中下巻に続く