論語とコンピュータ(読み書きそろばん)

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版画美術館に行った

昨年の夏、町田市の版画美術館に行ってみた。

 

特設展示の「彫刻刀が刻む戦後日本ー二つの民衆版画運動 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」を見た。

コンセプトは、1947年に日本で紹介された木版画(中国木刻)をもとに、社会運動を版画を通して伝える「戦後版画運動」(1947-1950)と学校教育の「教育版画運動」(1951-1990年代後半)だという。版画史として興味深く拝見した。

 

が、しかし

感じたところは別だ。

 

私が学生のころの学校教育は美術と体育については技巧や技術を一切教えてくれなかった。それでいて、技巧が上手い者の成績が良いのだから、腹立たしい。

未だに、見えたように表現する技法について教えを乞うたら、「見えたように描け」と言われ絶望したことはよく覚えている。(名前も顔も忘れたが)

 

中国木刻が手本としたという意味で飾ってあったケーテコルビッツの作品は、通常の絵画の技巧を用いて、亡くなった人の周りに慟哭する人がいるという構図であった。

これが、戦乱、そして内覧の時期に、おそらくは余裕がなく、構図は徐々にズレ、稚拙なものに下達していく。

ここに何か神秘を感じてしまった日本のシンパたちは、この技巧を失ったへたくそさに「ハイソな芸術家によるものではない労働者による芸術」として、自分たちの主義主張と変に重ね合わせてしまったようだ。

技巧が悪いもの、「みんななかよく」で下手な者が関与したものほど、良いとされたのだろう。石油工場のタンクの絵があった。一つは絵心があるものが手本として作り、後の二つは絵心と観察眼がない者がありえない階段を描いていた。美術館に飾ってよいレベルの代物ではない。

 

社会の情勢や、他人の評価を気にしすぎた結果、文化を崩壊させた課程が描かれていると恐怖を感じた。

 

同じことは、YouTuberに粗製乱造されていく、舐められた「達人」たちにも言える。

今は良くも悪くも、他人の評価がカネになる社会ではある。

YouTubeが何年か前に出していた広告「好きなことで生きていく」ではない。あれは「他人の基準で生きていく」に過ぎない。

それでもなお技術で生きる者は、技術に生きる必要があるのではないだろうか。そうでなければ、確実に堕落する。