2020年代、日本で古典は人気がない。さらに昔の学説を単に古いということや、文献学的な「解釈」が変わったとかいうだけの理由で排斥しようという動きに満ち満ちている。
古典とは、ほんとうにそんなにもつまらないものだろうか?
古典を固定した一意に解釈すべき死んだ文書と考えればその通りだろう。実につまらない。
ところが、この吉川幸次郎氏の「論語の話」は、そうではない。論語の根源に潜りこみ、生命を持たせつつ、当時の学者たちの諸々の見解を横目に見ながら、自己の説を述べている。
ここでは、論語は生きている。そんな風に注釈されるとき、古いものは生き返り、その人の個性がどうしようもなく表れ出てしまうものではないだろうか?
一方で、古典は最初から原典のみを読むべきだと考える人たちもいる。
それはある意味正しいだろう。しかし、この点についてはバランスが大変に難しいと感じている。あらゆる技能、技芸がそうであるように、いきなり原典だけを読むことができる人は居ないと断言して良いと思う。厳密に言えば、そのような人は、その古典を書いた人物を凌駕しない限り、存在し得ない。
人間は過去から延々と連なる縦の系譜の上に生きているからこそ、意味がある。その上に立つからこそ我々は文字を認識し、原典を読みはじめることが叶う。
最終的に原典のみに戻り、飽くことなく読み込むことには価値があるけれど、その過程において過去の人が研究し、それを表現した注釈の書を読み、身につけておくことは決して恥ではないというか必須であろう。
本書は1966年の夏にラジオでひと月放送されたものの文字おこしだという。
ある時期の日本国民から毎日夏の朝にこれを聞きたいという需要があったことに私は感動する。
以下は飽くまでもメモなので、少しずつ変更することは了承してほしい。また、本書に興味を持った人は、ぜひ、実際に手に取って読んでみてほしい。
第1回 「論語」とはどんな書物か
第2回 「論語」が読まれてきた理由
第3回 孔子の生まれ
第4回 「十有五にして学に志す」
第五回 30にして立つ
第六回 斉の景公との対話
第七回 「論語」は封建的な書物か
第八回 孔子を取り巻く世の乱れ(1)
第九回 孔子を取り巻く世の乱れ(2)
第十回 政治を通して理想を実現する